目の前を走る二匹の猫を追いかけて、辿り着いたのはとある川辺。
雪も小止みになった川縁の東屋の前で、日猫(リーマオ)と月猫(ユエマオ)が足を止める。
「主様ー」
「主様ー」
「………来たか」
その声は雪に吸い込まれそうな呟きにも関わらず、風を切って確かに瑪月(マーユエ)の耳に届いた。
襟上で切り上げられた緑髪は、上司には珍しく灰色掛かった緑。眦の吊り上がった青眼は、空の青では無く湖の碧。
老緑(ラオリュー)に羅紗の蝋白(ラーパイ)を重ねた、柳襲のゆったりとした漢服を身に着けた…一見少年の上司は、瑪月から見て左に日猫、右に月猫を従えて億劫そうに立ち上がる。
その動きで日猫の橘と、月猫の桜の透かしの入った水干の袖が風になびく。
「どーも。初めて遇う上司サンだな」
「そうだな。俺の領域は"此処"では無い」
頷く緑髪の少年に、「んじゃ、改めて」と、瑪月は左手で右手の拳を包み胸の前に揚げる。
「お初に掛かります『常盤にして命の流れの見守り主』の一柱。
我等風追い人の束(たばね)たる、幾数多の『時渡り』の一柱。」
―― それは、世界を構成する神の称。
―― 神々の災厄に侵された運命に介入出来る、時渡りの神。
叩頭せず、拱手のみで敬礼した瑪月に気分を害す事も無く、星霜を経た神木の数だけ存在すると言われる常緑の多柱神の一柱たる少年は、ゆっくりと頷いた。
「んでだ。上司サン」
伏せていた赤瑪瑙の眼を開け、改まった口調から普段の口調で話しかける瑪月に、時渡りの神は目を細めると億劫そうに溜息を吐いた。
「……なんで『風渡り』は一概に似た様な奴等ばっかり『成る』んだ…?
何処の風渡りに会っても二言目には気安く話しかけてくる」
短い髪を掻き揚げて嘆息一つ。
それでもその表情に呆れは有っても嫌悪は無い。
「とりあえず上司上司言うな。煩わしい。
称は垂楊。呼ぶならそれで呼べ」
「スイヨウ。あーはいはい。それで小猫(シャオマオ)達が『水治め』だの言ってたのか」
大陸では旅立つ人に手折って手渡され、水害対策として川や池の畔に植えられた。
垂楊(スイヨウ) ―― 枝垂れ柳を意味するその言葉に、彼の木霊たる半身を知る。
「んで?小猫達が俺んトコに来た『お腹を空かせた子』ってのは何処だ?」
見当らねーんだけど。
瑪月が頭を廻らせても、此処に居るのは緑髪の上司と、薄紫と漆黒の小猫、そして自分の4人のみ。
日猫と月猫が自分に頼んだ鶏肉入り粽は五つ。勘定が合わない。
「主様ー」
「主様ー」
小猫ズに漢服の裾を引っ張られ、垂楊がゆったりとした漢服の袖に腕を突っ込み、袂を探る。
傍目には大して厚みの無い袂だが、垂楊が突っ込んだ手の動きが袂の上から見えない事を考えると、どうも袂の中では物理法則が無視されているに違いない。
「 ―― こいつだ」
暫くもそもそ袂を探っていた垂楊が腕を引き抜けば、その掌の上にはぽってりとした深紫の塊。 ―― 否、塊と呼ぶには気配が果敢ない。
まじまじと躰を屈めて垂楊の掌の霧の塊を見ていれば、持っている垂楊の人差指と薬指の爪先が鉤爪の形で深紫に染まる。垂れた三白眼が指の間からしぱしぱ瞬き、ちっさくちっさく口を開けてソレは鳴いた。
『こー?』
「うわ、ちっさ!」
思わず叫んで驚くと、ちっさいソレは垂楊の手の上でぷるぷる震える。
本当は袂の中に引っ込みたかったのだが、垂楊にがっちり掴まれて逃亡を阻止されたのだった。
「騒ぐな。怯える」
「あぁー悪い悪い。驚かせて悪かったな~」
くにくにと指の腹でソレの頭を撫でると、微かにぴるぴると耳(?)が揺れる。
なんとなく小動物めいて可愛いソレは、本来の大きさならとても可愛いとは評し難いものなのだが。
「……聞いていいか?」
「聞かずとも……見た儘だ」
「いや…にしたって…」
「小さすぎだろ」と瑪月の呟きに、垂楊の掌の上にぽってり乗った……実際の10分の1の大きさの原型のゴーストが、こー?と躰を傾げて小さく鳴いた。